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第三話 英雄の傷痕

last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-28 19:21:01

「……閣下!」

 執事の声が廊下へ響いた。

 空気が変わり張り詰める。

 さっきまで静かだった屋敷の空気が、一瞬で何かに飲み込まれたみたいだった。

 レオン・ヴァルハルトは何も言わない。けれど、その銀色の瞳だけが僅かに鋭くなる。

「失礼する」

 短く告げる。

 すぐに部屋を出ていこうとした。

「あ、待っ――」

 呼び止めようとして、やめた。

 今の空気は明らかに何かがおかしい。

 扉が閉まり、広い執務室に静寂が取り残された。

「……何なの……」

 嫌な感じがした。

 胸の奥が落ち着かない。

 さっきの執事の声。

 あれはただ事じゃなかった。

 数秒考える。

 迷う。

 そして――

「……帰る空気じゃないわよね」

 誰もいない部屋へ呟く。

 しかし気になる。

 ものすごく。

 良くないことだとは分かっている。

 でも、薬師として。いや、人として。

 あの空気を無視することはできなかった。

 扉を開けると静かな廊下の少し先で人の気配がする。

 使用人たちだ。何人か集まっている。

 みんな顔色が悪い。

「……何かあったんですか?」

 問いかける。

 若い侍女がびくりと肩を震わせた。

「あ……」

「閣下に何か?」

 使用人たちが皆沈黙してしまう。

 どうやら迷っているようだ。

 言うべきか。

 言わないべきか。

 そんな顔。

「大丈夫です」

 少し声を柔らかくする。

「無理にとは言いません」

 年配の使用人が小さく息を吐いた。

「……いつものことです」

「いつもの?」

「閣下は、お疲れが重なると……時々、お身体を悪くなさるのです」

 身体を悪くする。

 曖昧な言い方。

 隠している。

 そう思った。

「医師は?」

「診ていただいております」

「なら」

「……治らないのです」

 空気が重くなる。

 誰も目を合わせない。

 まるで触れてはいけない話。

 そんな雰囲気だった。

「どちらですか」

「え?」

「レオン様」

 気づけば聞いていた。

 侍女たちが驚いた顔をする。

 当然かもしれない。

 婚約者とはいえ今日初めて会ったばかり。

 それなのに。

「……案内してください」

 ◇

 屋敷の奥のさらに奥。

 静かな廊下。

 使用人が立ち止まる。

「こちらです」

 重厚な木製の扉。

 その前に執事長グレイが立っていた。

 こちらを見ると少し驚いた顔をした。

「リリア様」

「中にいますか」

「……はい」

「容態は」

「医師がおります」

「よかった」

 ほっと息をつく。

 だが、グレイは苦しそうな顔をした。

「ですが……」

 嫌な予感がする。

「効かないのです」

「……何が」

「薬も」

 静かに、絞り出すように。

「治癒術も」

 リリアの背筋が冷えた。

 ありえない。

 病なら薬。、怪我なら治癒術。

 それが常識。それが効かない?

「どういう」

 その時。

 部屋の奥で低い音たてて何かが倒れた。

 続いて苦しそうな呼吸。

 リリアは考える前に動いていた。

「リリア様!」

 止める声を無視して扉を開く。

 部屋の中は薄暗く、窓は全て閉じられている。

 医師が二人居たが空気が重い。

 床には割れたガラスが散らばっている。

 そして、レオンが壁に手をついたまま苦しそうに息をしていた。

「……っ」

 息を呑む。

 軍服が乱れている。

 額に汗をかき、呼吸が荒い。

 そして見えてしまった。

 首筋に黒い痣……違う、これは痣じゃない。

 何かが這っているみたいだった。

 黒い筋が生き物みたいに肌を侵食している。

「何……これ……」

 誰も答えない。

 医師が青い顔をしている。

 レオンは壁へ手をついたまま俯いていた。

「閣下」

 医師が言う。

「鎮静薬を」

「いらない」

 掠れた低い声で苦しそうにしながら拒絶する。

「ですが」

「出ていけ」

 空気が凍る。

 誰も動かない。

 レオンが顔を上げた。

 銀色の瞳、でも違う。

 怖かった。

 何か違うものが混じっている。

 獣みたいな危うさ。

「聞こえなかったか」

 静かな声。

 なのに威圧感が凄まじい。

 医師たちが後退る。

 使用人も。誰も近づけない。

 孤立。

 たった一人苦しんでいるのに。

 誰も触れられない。

 その姿がどうしようもなく胸に刺さった。

「……みんな出て」

 静かに言った。

 全員が見る。

「リリア様?」

「出てください」

「危険です」

「いいから」

 執事が迷う。

 当然だ。

 今日来たばかりの女に信用なんてない。

 でも。

「……お願いします」

 薬師として分かる。

 このままは駄目だ。

 しばらく沈黙した後、やがて執事長が頭を下げた。

「……皆、外へ」

 扉が閉まる。

 二人部屋に残された。

 静かな部屋に苦しい呼吸だけが聞こえる。

「……来るな」

 低い声で拒絶する。

 正直ものすごく怖い。

 でも。

「嫌です」

 一歩近づく。

「出ていけ」

「嫌です」

「……馬鹿か」

「よく言われます」

 近づくあと数歩。

 黒い痣が広がっている。

 これは病じゃない。

 もっと嫌なもの。

「……呪い」

 呟く。すると空気が止まる。

 レオンが僅かに顔を上げた。

 銀色の瞳を見開いて初めて明確な驚きを見せる。

「分かるのか」

「少しだけ」

 薬師として知識はある。

 古い文献で読んだ禁呪。

 魔物、穢れ。

 そして、浄化。

「……触ります」

「やめろ」

「嫌です」

「死ぬぞ」

「まだ死にたくありません」

 でも、放っておけない。

 そっと首筋に手を伸ばした。

 黒い侵食に触れる。

 その瞬間、身体の奥が熱くなる。

 何かが溢れる。

 淡い銀色の光が部屋を照らした。

 空気が揺れる。

 黒い痣が僅かに。ほんの僅かに薄くなった。

 レオンの目が見開かれる。

 信じられないものを見る顔。

「……な……」

 息を呑む。

 リリア自身も。

 驚いていた。

 今何をした?

 身体の奥がじんわり熱い。

 知らない感覚。

 レオンが静かに呟いた。

「……ありえない」

 銀色の瞳に初めて冷たさじゃない感情が宿っていた。

 そして、次の瞬間、身体が傾く。

「あ」

 倒れる。

 咄嗟に支える。

 重い、近い。息が止まる。

 銀色の髪が頬に触れた。

 驚くほど熱い。

「……レオン様」

 返事がない。意識を失っていた。

 静かな部屋。

 重なる呼吸。

 腕の中で英雄が眠っていた。

 誰にも見せない弱さを隠し続けて壊れそうになるまで。たった一人で抱え込んで。

「……馬鹿」

 思わず呟いた。

 冷たい人だと思った。

 嫌な人だと思った。

 でも、違う。

 たぶんこの人は、誰より助けを求めるのが下手な人だ。

 そして、リリアはまだ知らない。

 自分が今この国でたった一人、銀狼公爵を救える存在だということを。

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