Mag-log in「……閣下!」
執事の声が廊下へ響いた。
空気が変わり張り詰める。 さっきまで静かだった屋敷の空気が、一瞬で何かに飲み込まれたみたいだった。 レオン・ヴァルハルトは何も言わない。けれど、その銀色の瞳だけが僅かに鋭くなる。「失礼する」
短く告げる。
すぐに部屋を出ていこうとした。「あ、待っ――」
呼び止めようとして、やめた。
今の空気は明らかに何かがおかしい。 扉が閉まり、広い執務室に静寂が取り残された。「……何なの……」
嫌な感じがした。
胸の奥が落ち着かない。 さっきの執事の声。 あれはただ事じゃなかった。 数秒考える。 迷う。 そして――「……帰る空気じゃないわよね」
誰もいない部屋へ呟く。
しかし気になる。 ものすごく。 良くないことだとは分かっている。 でも、薬師として。いや、人として。 あの空気を無視することはできなかった。扉を開けると静かな廊下の少し先で人の気配がする。
使用人たちだ。何人か集まっている。 みんな顔色が悪い。「……何かあったんですか?」
問いかける。
若い侍女がびくりと肩を震わせた。「あ……」
「閣下に何か?」使用人たちが皆沈黙してしまう。
どうやら迷っているようだ。 言うべきか。 言わないべきか。 そんな顔。「大丈夫です」
少し声を柔らかくする。
「無理にとは言いません」
年配の使用人が小さく息を吐いた。
「……いつものことです」
「いつもの?」 「閣下は、お疲れが重なると……時々、お身体を悪くなさるのです」身体を悪くする。
曖昧な言い方。 隠している。 そう思った。「医師は?」
「診ていただいております」 「なら」 「……治らないのです」空気が重くなる。
誰も目を合わせない。 まるで触れてはいけない話。 そんな雰囲気だった。「どちらですか」
「え?」 「レオン様」気づけば聞いていた。
侍女たちが驚いた顔をする。 当然かもしれない。 婚約者とはいえ今日初めて会ったばかり。 それなのに。「……案内してください」
◇
屋敷の奥のさらに奥。
静かな廊下。 使用人が立ち止まる。「こちらです」
重厚な木製の扉。
その前に執事長グレイが立っていた。 こちらを見ると少し驚いた顔をした。「リリア様」
「中にいますか」 「……はい」 「容態は」 「医師がおります」 「よかった」ほっと息をつく。
だが、グレイは苦しそうな顔をした。「ですが……」
嫌な予感がする。
「効かないのです」
「……何が」 「薬も」静かに、絞り出すように。
「治癒術も」
リリアの背筋が冷えた。
ありえない。 病なら薬。、怪我なら治癒術。 それが常識。それが効かない?「どういう」
その時。
部屋の奥で低い音たてて何かが倒れた。
続いて苦しそうな呼吸。 リリアは考える前に動いていた。「リリア様!」
止める声を無視して扉を開く。
部屋の中は薄暗く、窓は全て閉じられている。 医師が二人居たが空気が重い。 床には割れたガラスが散らばっている。 そして、レオンが壁に手をついたまま苦しそうに息をしていた。「……っ」
息を呑む。
軍服が乱れている。 額に汗をかき、呼吸が荒い。そして見えてしまった。
首筋に黒い痣……違う、これは痣じゃない。 何かが這っているみたいだった。 黒い筋が生き物みたいに肌を侵食している。「何……これ……」
誰も答えない。
医師が青い顔をしている。 レオンは壁へ手をついたまま俯いていた。「閣下」
医師が言う。
「鎮静薬を」
「いらない」掠れた低い声で苦しそうにしながら拒絶する。
「ですが」
「出ていけ」空気が凍る。
誰も動かない。 レオンが顔を上げた。 銀色の瞳、でも違う。 怖かった。 何か違うものが混じっている。 獣みたいな危うさ。「聞こえなかったか」
静かな声。
なのに威圧感が凄まじい。 医師たちが後退る。 使用人も。誰も近づけない。 孤立。 たった一人苦しんでいるのに。誰も触れられない。
その姿がどうしようもなく胸に刺さった。「……みんな出て」
静かに言った。
全員が見る。「リリア様?」
「出てください」 「危険です」 「いいから」執事が迷う。
当然だ。 今日来たばかりの女に信用なんてない。 でも。「……お願いします」
薬師として分かる。
このままは駄目だ。 しばらく沈黙した後、やがて執事長が頭を下げた。「……皆、外へ」
扉が閉まる。
二人部屋に残された。 静かな部屋に苦しい呼吸だけが聞こえる。「……来るな」
低い声で拒絶する。
正直ものすごく怖い。 でも。「嫌です」
一歩近づく。
「出ていけ」
「嫌です」 「……馬鹿か」 「よく言われます」近づくあと数歩。
黒い痣が広がっている。 これは病じゃない。 もっと嫌なもの。「……呪い」
呟く。すると空気が止まる。
レオンが僅かに顔を上げた。 銀色の瞳を見開いて初めて明確な驚きを見せる。「分かるのか」
「少しだけ」薬師として知識はある。
古い文献で読んだ禁呪。 魔物、穢れ。 そして、浄化。「……触ります」
「やめろ」 「嫌です」 「死ぬぞ」 「まだ死にたくありません」でも、放っておけない。
そっと首筋に手を伸ばした。 黒い侵食に触れる。 その瞬間、身体の奥が熱くなる。 何かが溢れる。 淡い銀色の光が部屋を照らした。 空気が揺れる。 黒い痣が僅かに。ほんの僅かに薄くなった。 レオンの目が見開かれる。 信じられないものを見る顔。「……な……」
息を呑む。
リリア自身も。 驚いていた。 今何をした? 身体の奥がじんわり熱い。 知らない感覚。 レオンが静かに呟いた。「……ありえない」
銀色の瞳に初めて冷たさじゃない感情が宿っていた。
そして、次の瞬間、身体が傾く。「あ」
倒れる。
咄嗟に支える。 重い、近い。息が止まる。 銀色の髪が頬に触れた。 驚くほど熱い。「……レオン様」
返事がない。意識を失っていた。
静かな部屋。 重なる呼吸。 腕の中で英雄が眠っていた。 誰にも見せない弱さを隠し続けて壊れそうになるまで。たった一人で抱え込んで。「……馬鹿」
思わず呟いた。
冷たい人だと思った。 嫌な人だと思った。 でも、違う。 たぶんこの人は、誰より助けを求めるのが下手な人だ。 そして、リリアはまだ知らない。 自分が今この国でたった一人、銀狼公爵を救える存在だということを。公開裁判の日、王都には朝から冷たい雨が降り続いていた。 強く地面を叩きつけるような雨ではなく、細く静かな雨だった。それでも途切れる気配はなく、石畳を濡らし、王宮の屋根を灰色に染め、中央司法院の前に集まった人々の肩にも容赦なく降り注いでいる。その景色は、まるで王国が長いあいだ隠し続けてきた罪を、今日という一日をかけて洗い流そうとしているようにも見えた。 もっとも、どれほど雨が降ったところで、起きたことそのものを消せるわけではない。 王宮に隣接する中央司法院の前には、夜が明けるより前から大勢の人々が集まっていた。北方で黒霧事件に巻き込まれた者、王宮研究局による実験の犠牲者やその家族、黒鴉会に大切な者を奪われた者、そして王国で本当は何が行われていたのかを自分の目で確かめようとする民衆まで、その顔ぶれはさまざまだった。 誰一人として晴れやかな顔をしていない。 怒りを隠そうともしない者がいれば、何年も泣き続けてきたのだろうと思わせるほど疲れた顔をした者もいる。自分でも何を感じればいいのか分からず、ただ司法院の建物を見上げている者もいた。 馬車の窓越しにその光景を見つめながら、リリアは膝の上で両手を重ね、指先へ無意識に力を込めていた。「……すごい人ですね」「ああ」 隣に座るレオンが短く答えた。 今日は普段の黒い軍服ではなく、銀狼公爵として正式に証言台へ立つための濃紺の礼装を身につけている。胸元にはヴァルハルト公爵家の紋章があり、その下には銀狼と藍色の月を重ねた小さな飾りがつけられていた。 それは、かつて深淵と呼ばれていたノクスとの新しい契約を示す意匠だった。 王国が長く恐れ、銀狼公爵家が代々その身に封じ込めるしかなかった存在を、今のレオンは隠そうとはしていない。それもまた、今日ここで語られるべき歴史の一部なのだろう。「怖いか」 レオンに尋ねられ、リリアは少し考えてから頷いた。「はい。正直に言えば、かなり怖いです」「セドリックの裁判だからか」「それもあります。でも、今日はセドリ
求婚から一週間が過ぎた頃、公爵邸には、これまでとはまったく種類の違う慌ただしさが訪れていた。 黒霧が現れたわけでもなければ、王宮から緊急の命令が届いたわけでもない。もちろん深淵が暴れたわけでも、忘却の海から異変の知らせが届いたわけでもなかった。それでも朝から使用人たちは屋敷中を行き交い、応接室では書類が積み上がり、廊下では仕立て職人や料理人、庭師たちが忙しそうに打ち合わせを続けている。 その原因は、三か月後に予定されているリリアとレオンの婚礼だった。「ですから、招待状の封蝋はヴァルハルト公爵家の銀狼紋で統一すべきです。正式な婚礼である以上、家格を示す意匠は外せません」「銀狼紋だけではリリア様らしさがありません。月白花の意匠も入れてください」「公爵家の正式文書ですので、あまり装飾を増やすのは――」「格式だけで結婚するわけではないでしょう!」 朝から応接室では、グレイとミアが真剣な顔で招待状の意匠について議論していた。 大きなテーブルの上には十種類を超える見本が並べられており、銀狼、月、花、星、夜空といった意匠が、それぞれ少しずつ違う組み合わせで配置されている。その横の机には衣装用の布地や宝石、食器、装花の候補、引き出物の見本、料理の献立まで置かれ、さらに壁際には、いつ誰が用意したのか分からないほど巨大な婚礼準備表まで立てかけられていた。 部屋の入口に立ったリリアは、その光景をしばらく眺めた後、思わず隣のレオンへ顔を向けた。「……戦争の作戦会議みたいですね」「王宮地下へ潜る時より複雑に見える」「私もそう思います」「聞こえておりますよ」 グレイが振り返り、いつも通りの冷静な表情でレオンへ一礼した。「旦那様、本日はまず招待状の意匠を――」「まだ旦那様ではない」 レオンが即座に訂正すると、グレイは一瞬も表情を崩さなかった。「失礼いたしました。未来の旦那様」「それもやめろ」「では、いつも通り閣下とお呼びいたします」
白月塔の最上階に開かれていた光の扉が、少しずつ細くなっていく。 その向こうに最後まで見えていたのは、かつて忘却の海と呼ばれていた場所だった。 誰にも迎えられず、名前を失い、帰る場所さえなくした無数の記憶が沈んでいた黒い海は、もう以前の姿をしていない。水面を覆っていた闇は静かな大地へ変わり始め、その上には月白花によく似た白い花が咲き、深い藍色の夜空には無数の星が浮かんでいた。 そして庭の中央では、小さな姿をしたメモリアが、離れていこうとするリリアたちを見つめている。『リリア』 呼ばれて、リリアは扉をくぐる直前に振り返った。「はい」『また来る?』 その問いには、名前を得たばかりの存在が抱える不安が滲んでいた。 メモリアにとって、忘れられることは存在を失うこととほとんど同じ意味を持っていたのだろう。長い時間、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所をなくした記憶たちと共にいたからこそ、誰かが自分のもとを去っていくことを、まだ素直に受け入れきれないのかもしれない。 リリアはそんなメモリアへ向けて、できるだけ安心させるように微笑んだ。「もちろんです。また来ます」『忘れない?』 その言葉に、リリアは一瞬だけ迷った。 以前なら、きっと「忘れない」と答えただろう。 大切なものを守るためには、何一つ失ってはいけないと思っていたし、忘れることそのものが裏切りのように感じられていた。 けれど今は、少し違う。「もしかしたら、忘れることはあるかもしれません」 メモリアの表情がたちまち曇ったため、リリアは慌てずに続きを口にした。「でも、もし忘れてしまったら、その時はまた思い出しに来ます。忘れないことだけが大切なんじゃなくて、忘れたあとでもう一度見つけることの方が大切な時もあるって、私たちはここで教えてもらいましたから」 メモリアはしばらく何も言わなかった。 やがて、その小さな顔にほんの少しだけ安堵が浮かぶ。『分かった。待っている』 そ
黒い波は、もはや海というより巨大な壁だった。 リリアとレオンの前で空を覆い尽くすほど高く盛り上がったその波の中には、数え切れないほどの声と記憶が混ざり合っている。誰にも名前を呼ばれず、思い出されることもなく、帰る場所を失ったまま長い時間を漂い続けてきたものたちが、怒りと悲しみを抱えて二人へ押し寄せていた。「リリア、本当に戦わないのか」 レオンは剣を構えたまま、視線だけを彼女へ向けた。刃の上には銀色と藍色の光が重なり、迫り来る黒い海を迎え撃てるだけの力が満ちている。「はい。少なくとも、最初から斬るつもりはありません」 答えながらも、リリアの身体は僅かに震えていた。 目の前の光景だけを見れば、逃げ出したいと思うのが当然だった。波に呑まれれば自分がどうなるのか分からず、月華の力でさえ耐えられる保証はない。 それでも、耳に届いてくるものを無視することができなかった。『お母さん』『帰りたい』『寒い』『痛い』『僕の名前を、忘れないで』 それは敵が発する声ではなかった。 ずっと誰かに聞いてほしかった人たちの声だった。「この人たちは、私たちを傷つけたいだけじゃないんです」 リリアは胸元へ手を当てた。「ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。自分がいたことを、知ってほしかったんです」「それでも、お前を呑み込もうとしていることは変わらない」「分かっています」「なら――」「だからこそ、もう一人で全部受け取ろうとはしません」 リリアはレオンの手を取った。 その言葉に、レオンの瞳が僅かに揺れる。「話は聞きます。でも、全部を私の中へ入れるんじゃなくて、この人たちがそれぞれの記憶のままでいられる場所を作ります」「そんなことができるのか」「分かりません。でも、やってみます」 以前の自分なら、きっと「できます」と言い切っていただろう。 誰かを救うた
最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。 誰かの名前。 誰かの声。 誰かが確かに生きていたという証。 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。「……レオン様」 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。 返事はない。 胸の奥が急速に冷えていく。「レオン様!」 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。 第一王子も、ノクスもいない。 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。『誰だ』 たった一言だった。 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。 それでも怖かった。 今までは、自分が忘れる側だった。 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。 けれど今度は、レオンが忘れた。 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。「今度は、私が呼ぶ番ですね」 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。 その
「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見